栄涼寺 ~長岡藩家老・河井継之助の墓所~

光輝山月照院榮凉寺

初代長岡藩主・牧野忠成公によって開基された寺院。
戊辰戦争時には新政府軍の野戦病院となった。
長岡藩主牧野家、長岡藩家老・河井継之助の墓所がある。

栄涼寺門柱
北越戊辰戦争招魂碑
北越戊辰戦争招魂碑
旧長岡藩主牧野家歴代の墓
旧長岡藩主牧野家歴代の墓
河井継之助の墓
河井継之助の墓
鐘楼

ガイドパネルより抜粋。
「当寺は元和5年5月(1619)に大坂の陣以来の戦功と徳川秀忠の信任を得て、越後長峰城主より長岡藩藩主に移封された牧野忠成公によって開基されました。
この移封の際に随従した僧、玄蓮社明譽唱空上人を開山上人とし、寺祿100石を賜り牧野家累代の香華院と定め、塔頭五院をもって創建されました。」

「創建以来380年、歴代藩主や藩士の菩提の寺も維新の激動に翻弄され、慶応4年(1868)の北越戊辰戦争では、当寺は西軍の野戦病院となり、同年7月に至って長岡城奪回戦で長岡藩士によって放火され、境内伽藍は全て焼失、墓石の半数以上が倒壊されてしまいました。
現在の境内伽藍は25世住職浅井順孝上人により明治25年梵鐘再鋳と鐘楼の上棟。同37年庫裡の再建。同38年土蔵造りの本堂再建の落慶法要が厳修され、現在に至っております。」

ガイドパネルより。(河井継之助の墓)
「文政10年(1827)1月1日、長岡城下岡心町(表町)に生まれた。幼少から文武にいそしみ、主に陽明学を修めた。
河合家の禄高は、120石であったがその才腕を認められて長岡藩政を指導し、のちに家老上席、軍事総督となった。
北越戊辰戦争では、新政府軍との小千谷談判にのぞみ、意見が通らず開戦となった。長岡城攻防戦では、よく奮闘してその名を高めた。長岡城を奪還した際、傷を負、慶応4年(1868)8月16日、会津塩沢で陣没した。」

2016/8月訪問

栄涼寺(新潟県長岡市):
JR長岡駅徒歩約12分

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